意味の分からない悪夢を見た気がして意識の覚醒と同時に急ひで目を開けました(夢は須らく悪夢でなければならぬ)。だうやら椅子に座つたまま眠つてゐたやうです。ハツとして今は何時かしらんと壁時計を見るともう朝から昼への移行期間でした。嗚呼いけない、すつかり寝過ごした様子です、姫ぃ様は何処にゐらしたのでせう、寝台の上には居られません。 キヨロキヨロと部屋の中を探しても居られない、ハハアさては姫ぃ様、外で雪遊びをしてらつしやるのだな、まつたく姫ぃ様は、ご自愛といふものをなさらない。朝の薬は時間通りに飲まれただらうか。嗚呼、私の莫迦。




外、吹きすさぶ木枯らしの中 天を仰ぐと、不機嫌さうな空の中、大きな星が空にポツカリと浮いてゐます。
今日の真夜中から明日までの間にこの星が地上にぶつかるのださうです。
空は落ち地は割れ海は荒れ植物は枯れ動物は死に───すなはち世界が終はるといふこと。
ああ、世界なんて、終わることのなきものだと思つてゐたのですけれどもね。



「あら躑躅、おはやう。 御覧なさいな、一面の銀世界よ、昼にはとけてしまふでせうけれども。 私、スノウマンをこさへたのだけれど、スノウマンとははたしてこれで良かつたかしらん」
 ニコニコと笑ふ姫ぃ様の顔は、白雪姫よりも真つ白で私はとても不安になつてしまう。 寒い中に放られたひとは頬をとても赤くしてしまふものだけれど、姫ぃ様はそこらの小娘とは違ふのだ(挙げるなら、私のやうな)。
「いけません、姫ぃ様、お体に触ります、サアお部屋の中へ」と私は嗜める。 大きなアンブレラを差し出す。 雪傘だ。 姫ぃ様は肩の雪をチョイと払つてアンブレラを見て、何を思つたのやら「スノウマンにも御傘を差し上げて」と首をかしげるのだ。 私は仰せのままにと答へ、スノウマンにアンブレラを差し上げる。 スノウマンを構成する3つの雪玉のうちの1つの、目を模した石が妙に輝いてゐたので、何かしらんと確認を取る。 石、 否違ふ、目を形成するは一対のイアリングだつた。 たしか・・・コハク、・・・琥珀、だらうと思ふ。 これは確か、姫ぃ様の兄君が独逸へ旅行をなさつたときに、姫ぃ様にお土産だとお渡しになつたものだ。 あの兄君は、同じ日に私にも西洋の笛をお土産としてくだすつた。 独逸に昔、笛を吹く鼠捕りの男が現れたさうだ、その男は約束のお礼を払わなかつた役所への見せしめに、街中の子供たちをご自慢の笛の音で操り、攫つていつてしまつたのだよ、おまへもそれ位の腕前になつてくれ給へ、と教へてくれたのを覚へてゐる。「姫ぃ様これは、」と姫ぃ様の方を向くと、私はとても恐ろしき顔をしてゐたのか、姫ぃ様はばつの悪さうな顔で「あら躑躅はその琥珀が欲しかつたの、でもごめんなさいね、もうスノウマンにあげてしまつたのよ」ときた。姫ぃ様の持ち物なのだから私がとやかく言ふことはないのだけれど、姫ぃ様はこの琥珀がお気に召さなかつたのかしらん。私に姫ぃ様は言ふ、「ネェ躑躅、ウバを入れて頂戴な」、私は答へる、「仰せのままに」。



燐寸を擦つて暖炉に火を起こす(燐寸の焦げた香り)。 もし、もし燐寸売りの少女に会つたら、姫ぃ様なら如何なさるだらう。 決まつてゐる、私に燐寸とは何かを尋ね、それからご自分の装身具何か一つと、少女の燐寸一箱とを交換なさるのだ。缶の中にはまだまだたくさん燐寸が残つてゐる、これは私が少女の言つた通りの金額を支払つて購入したものだ、つまらぬ。 燐寸と同じく、薬の包みも一向に減らないのは、私が姫ぃ様に甘いからだ、プラセボといふ概念を姫ぃ様が知らないと、御医者先生様はお思ひなのだらうか。
お勝手よりウバの葉を用意する。 良き香り、ほんのりと幸せになる。 姫ぃ様はお紅茶ではウバが一番好きだとおつしやる。 おこがましい事を言ふけれど、私も同じ意見だ。
お盆に乗せた紅茶を、姫ぃ様の部屋まで運ぶ。 ノツクをして、姫ぃ様の「お入り」との声。 「失礼致します、姫ぃ様、紅茶が入りました」「有難う躑躅」、今日の姫ぃ様は随分とよく笑ふ。 姫ぃ様の肌は白く、髪は黒い。 今は紫の唇が赤ければ、とても美人、西洋のお人形にも負けはしまい(口紅をさせば解決するなどといふ問題ではない)。 そんな姫ぃ様なのだけれど、笑うとさらに美しさに磨きがかかり、私はうつとりしてしまふ。
「ねエ躑躅、お掛け」と、姫ぃ様はまた我儘をいふ。 姫ぃ様の我儘は正しき我儘とでもいふのか、見るこちらがつい許してしまふ気性を持つ。 姫ぃ様にかかれば姫ぃ様の父君も母君も兄君も、ほねぬきだ。 しかし私はいけない、「いいえ姫ぃ様」「では貴方に命令よ、お掛け」。 ああ姫ぃ様は正しき我儘も正しくない我儘も身につけてらつしやる、私はついソフアに座つてしまつた。 大旦那様が姫ぃ様のために手配したソフアなのだけれど、とてもとてもふかふかとして、体が沈みこむやうだ。 雲に座つたやうな感覚とでも言ふのだらうか。 沈むまいとソフアと格闘する私の横で、姫ぃ様は暖炉の上の瓶を何やら手にしてらつしやる。グラスに注がれた、何だらう、甘酸つぱい果実のやうな香り、「お飲みなさい、躑躅。 貴方の好きな林檎よ、・・・林檎酒」え、と私はうろたへる。 姫ぃ様は優雅にソファに腰を下ろし、テェブルに置ひたウバのカツプを手にする。


差し出された林檎酒を




呑む


呑まない




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